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富士山本門寺の歴史1

本門寺勅額

後醍醐天皇勅宣による大聖人の御遺命である
富士山本門寺の本門戒壇堂荘厳に使用の本門寺勅額 (後醍醐天皇宸筆)

元弘3年(1333)5月8日、伯耆国船上山から後醍醐天皇は、「本門寺、祈願所となすの狀如件」の宸翰を日目上人に対して発し、日目上人の祈願に対する感狀を同月21日付で後醍醐天皇は「当寺祈祷事蝦夷(鎌倉幕府)己静謐之間法験之在殊感狀之也。本門寺長者として日目上人宛に発しています。同年6月5日京に遷幸し翌建武元年勅額を賜る。即ち、 寺号・宗号に関する許可権は当時天皇の大権でにありました。勅許の証しとして後醍醐天皇の宸翰勅額が下されたのです。※(昭和50年枠組修理施す)

後醍醐天皇が本門寺を勅許された宸翰

後醍醐天皇 元弘3年の宸翰 二通 日目上人宛(本門寺藏)

後醍醐天皇の天氣を賜って3年を経た元弘元年 討幕の変に依って翌年2月7日後醍醐天皇は隠岐国に遷幸となり翌3年閏2月24日隠岐を脱出し伯耆国船上山より後醍醐天皇が富士大石ヶ原法華大坊に発した宸翰である。日目上人の法華本門の祈禱に依って幕府は滅亡し後醍醐天皇は同月21日本門寺を 認可され本門寺長者(日目上人)に宛て宸翰を以って御感の意を表している。

田山氏鑑定書

田山方南氏 鑑定済 *田山方南氏の詳細はこちら

後醍醐天皇 綸旨

後醍醐天皇 御所持 妙法蓮華経寿量品 第16(本門寺藏)

延元4年8月16日 後醍醐天皇崩御の砌り所持の妙法蓮華経、巻の仕立であったが保存のため折本に仕立て直されている。(巷説では第5巻と云われている)

紺紙金泥妙法蓮華経8巻

愛染明王(上)/ 不動明王(下)

愛染明王は大聖人が感見した大覚世尊であり、不動明王は大聖人が感見した王法であります。故に、その讃として「大日如来より日蓮に至る23代嫡々相承建長6年6月25日、日蓮新佛授かる。とあります。大日如来とは天照大神の称であり、また釈迦如来とも呼ばれています。そしてまた応神は天照大神が再応したの意であり、ハ幡とはスメルの生命を司る天神アンを顕す神紋で釈迦如来の8葉蓮弁もアンの神紋を云い、16弁菊花紋は神璽の表裏を合わせた所であります。

日蓮大聖人御持用笠

本因妙大本尊と大聖人生身御影

日蓮大聖人生身御影 伝日興上人造立
日興師が大聖人を慕い大聖人の御身骨を土に練り込めて造立と伝えられ日興師は法華聖人御影と称し、終世給仕され、その御遺言に「日蓮大聖人御影、竝びに御下文・園城寺申狀。上野6人の老僧方めぐりて守護し奉るべし。但し、本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。(中略)此の旨に異議を成し失タラン輩は永く大謗法となすべし。仍て誡の狀如件 正慶2年癸酉(1333)2月13日とあります。※江戸期に陶工乾馬が補修と伝う。

日蓮大聖人 愛染・不動明王感見之図 2幅

日蓮大聖人持仏 釈迦立像

「仏は釈迦立像墓所の傍に立置べし」と大聖人が御遺言として残された仏像で大国阿闍梨日朗師が下山に当りて所持し自坊に祭っていたが、日目上人が永仁6年(1298)鎌倉殿中問答で勝利し翌正安元年(1300)鎌倉将軍久明親王より日目上人に御教書が下された事を知り日朗師は富士の日目上人のもとへ帰参し大聖人の御持仏であったこの釈迦立像を日目上人のもとに納められた。御伝土代には「日朗上人ハ去、正中(正安の誤りなり)のころ富士山入御あり。」とある。

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