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本門寺と国体南朝正統皇統との関係

本門寺勅額

新田小野寺五郎日目は日蓮大聖人の直弟子となり大聖人の御遺命に随い法華経本門の流布の御教書及び勅宣を賜うべく度々上表して後醍醐天皇から弘安3年5月「本門寺」の勅宣を受け鎌倉幕府討伐の祈祷を命じられ大功を立てられました。 翌々年の建武2年10月足利尊氏に謀叛あり。同年12月後醍醐天皇より足利尊氏追伐の祈祷の命を受け以って故日目聖人は二位法印に叙され紫小袖並びに宗近造「宝珠丸」の小太刀を賜りました。故に日目聖人の本門寺西大坊(蓮藏坊)方は国体後醍醐天皇方に加わり本門寺談所東大坊方の学生は皆、幕府御家人の子弟であったので武府方となり西大坊と東大坊は対立して抗争となり東大坊は保田に本居を移しました。 56年間の抗争を経、政体側武府より国体府に和睦の申入れがあり国体の後亀山天皇は譲国の議を以って三種神器を政体の持明院統、後小松院に譲渡し、その後は国体大覚寺統と政体持明院統が交代で皇位に付く事と成りましたが、その約束は36年後に政体持明院統に依って一方的に破られ国体大覚寺統は嘉吉3年(1443)9月三種神器を奪回し即位、冶天皇となり以降度々抗争はありましたが大覚寺統は三種神器を護り即位して今日に至りました。その途中、長禄2年(1458)の変に冶天皇(惟尊)は出羽に遷幸し日目聖人の産舘の本流千福小野寺氏の娘を嫁取り武府政体から出羽王と呼ばれ、応仁の乱に冶天皇は父子共に入洛、皇太子は西陣に即位致し冶天皇となりましたが法体された太上皇は男山八幡の田中荘に崩御し、残された冶天皇は伊勢の北畠氏に奉護され伊勢に移り、伊勢より明応8年(1499)11月、王仏冥合の立正安国を護持信仰する小野寺一党に迎へられ駿河の駿東の地に遷幸し阿野庄内に大城を構えました。此の大城の一部が、東台崖戸と呼ばれ、また本門寺の重宝の全ては武府政体の世から円時の来る時まで此処に秘められ故に、この地は貫法主と呼ばれる所となり冶天皇(東光院)の代から日蓮大聖人の佛法と深く拘わり終には冶天の南皇はその佛法の継承当事者と成って王佛冥合を主張し今日に至りました。 小野寺とは後醍醐天皇の霊廟を通称小野寺と称し、寺号は唐の時代は行政府を表す称号で故に二つの意を合わせ以って代々小野寺南主と号して来ましたが戊辰(1868)に破れた国体南主の東台崖戸の稜墓は明治2年政体府に依って全て取り壊され地表20尺削り取られ富士沼に捨てられてしまいました。戊辰の当事者の上行院南主の曾祖父冶天皇知徳院南主(通称東武・太政天皇)は明治政体の官憲に追われ始め龍善院陛下の御焼骨を以って江戸高輪東禪寺に墓稜を造り自己の墓稜に見せかけ遷幸し明治27年1月3日崩御されました。 玄祖父龍善院南主墓稜は明治官憲に依り明治23年に破壊され親族仙台伊達氏に依って白金台の瑞聖寺仙台伊達氏墓所内に改葬され、その管理権は伯爵伊達邦宗氏より父後顕徳院南主に引き渡され平成6年1月21日の上行院の改葬途中盗堀され発掘出土品は、行政に依って奪われ現在重要文化財に指定されております。出土品奪回の為、平成15年(ワ)29819号動産所有権確認等請求事件を提起。

 

請求の原因

1、 本件動産所有権帰属について

(1) 原告小野寺直は、後醍醐天皇の末裔であると云われている知徳院(通称東武天皇)と仙台藩主伊達慶邦の養女との曾孫である後顕徳院(小野寺象一郎)の嫡子であり、後顕徳院の死亡により同人の地位を相続した。(以下略)

(2) 明治元年の戊辰戦争に於て仙台伊達家13代藩主伊達慶邦氏が中心となって現在の皇統(北朝)と別の正統天皇(南朝)として担いだ知徳院(後醍醐天皇の末裔であると云われている通称東武天皇)の崩御の後、高輪東禪寺伊達家墓域に設けられた知徳院墳墓が、国賊として明治政府の官権によって発かれたために、伊達宗基氏は明治23年4月、同所にあった父伊達慶邦氏及びその六男徳六郎の墳墓の改葬と称して、伊達家4代藩主伊達綱村の子女高姫(宝池院)及び扇千代(香林院)の墓域であった伊達家瑞聖寺墓所(以下「本件墓所」という)(別紙図面の墓域)に徳六郎の神葬墓標を移転すると共に知徳院の遺骨及び墓石を納めた。(以下略)。以上の主張に対し裁判所は、前記確認書及び譲渡證共に、勇蔵(知徳院)及び勇蔵と共に埋葬されている子女の遺骨遺品を回収するため原告において東禪寺及び本件墓所を改葬する権限があることを東禪寺もしくは被告瑞聖寺に示して、その承諾を得ることを主たる目的として作成されたものと認められ(中略)貞宗(伊達)も原告のこの趣旨を理解し、(中略)署名捺印したものというのが相当である。との判決理由が示され今日に至っています。